「南極第1次観測隊物語」と数々の出会い

 今年は日本が初めての南極観測隊を派遣してから丁度50年目にあたります。南極観測船「宗谷」が晴海埠頭を出港したのが11月8日、その記念日に向けて、これから様々なイベントが催されることでしょう。私も2年前から新作オリジナル講談として「南極第1次観測隊物語」を演じておりますので、是非ともこの50周年、大きく盛り上がってもらいたいと思っております。

 この新作を演じるにあたっては色々な事がありました、そして、思いがけない様々な出会いも。この1時間を越える大ネタも、ようやく最近、形になってきたようですので、これまでのことをお話してみよううと思います。

 このネタを見つけてきて台本にまとめてくれましたのは、前作「ホタル帰る」と同じく作曲家の羽野誠司さん。実は私は南極観測隊の話はカラフト犬タロ・ジロのことくらいしか知らなかったのですが、羽野さんに色々教わって、段々おもしろいと思うようになりました。

 この話はほんの50年前のことですし、当時の新聞記事や関係者の方々が書かれた本など、資料が色々あります。そのいくつかを取り上げて、羽野さんは台本を書き上げてくれました。それから、新聞記事などはともかく、資料として使わせていただいた本の著者の方には、使用を許していただかなくてはなりません。お一人は羽野さんが連絡したところ、快諾して下さいました。それでもうお一人、こちらは犬ぞりを担当し、その犬達を心ならずも南極におきざりにした翌年、タロ・ジロの2頭を発見した方。現九州大学名誉教授の北村泰一先生です。

 たまたま私が、なぜそうしたのか分かりませんが「文藝春秋・特別版」というとても堅い本を、なにげなく書店で見たら、その本に北村先生のエッセイが載っておりました。それで早速文藝春秋に電話、北村先生の連絡先をお聞きしようと思ったのです。出られたのは編集長のT氏。南極観測隊の講談に〜という私の説明に、「それじゃ、私から連絡してみましょう」と、おっしゃって下さいました。なにしろ北村先生はオーロラ研究の世界的権威、どこの馬の骨だか分からない無名の講談師では、直接連絡しても相手にされないでしょうから、T編集長にお任せしてとにかく待つことにしました。

 「ホタル帰る」の時もそうでしたが、事実を正しく伝えるという姿勢で取り組んでおりますので、特に問題はないだろうと軽く考えていたのですが、まもなくいただいたお電話では、とても慎重に内容を検討したいとのお答でした。また、北村先生はたいへんお忙しいので、連絡などの窓口はT編集長が任されるとの事でした。なんだかちょっと大変そうです・・・。

 とりあえず台本をお送りしました。まもなくいただいたお電話では、北村先生のご希望は、「資料提供でなく、自分の著作のみを原作とする形に書き直して欲しい」とのことでした。書き直すのでは羽野さんがたいへん、どうしてこのままじゃいけないのかと思ったのですが、羽野さんは「この話はどうしてもモノにしたいから」と、書き直して下さいました。

 あとで分かったことですが、北村先生はご自分の書いたものや写真など、これまでさんざん無許可で使われてきて、正直マスコミを信用できなくなっていたようです。また、映画「南極物語」もそうですが、あまりにもでっち上げられた話が多く、「自分が関与するのなら、歴史的に正確なものを」というこだわりもお持ちでした。羽野さんの書き直した台本をチェックして、細かい点まで確認された上で、ついに許可を出して下さいました。

 ここまで、実は一月以上かかったのですが、文藝春秋のT編集長、私と北村先生の間に入ったことで、ずいぶんとお手間をとらせてしまいました。どうしてこんな、仕事と関係無いことを熱心にして下さるのか・・と思ったのですが、T編集長、後日こんなことをおっしゃいました。
「まだ若いとき、そのころ売りだしてきた講談師を取材したことがあるんですよ。そのとき、インタビューだけじゃなくお宅にまで押しかけましてね、お宅と行っても四畳半一間のアパートですよ。さすがに奥さんに怒られました。あとで考えたら失礼なことをしたな・・と。まもなく停年なので、この機会にそのカリを、講談界に返せるかなと思ったんですよ」

 この講談師の先生って、いま、たぶん一番顔を知られているあの方ですよ。本当に、人の縁って色んなところで繋がっているんですね。

 さて、上演許可はいただけたのですが、まだどこでネタ下ろしするのかアテはありません、一時間以上の大ネタですから。やっぱり自分の「すっぱいは成功の会」でやるしかないか・・と思っていた夏のこと、羽野さんが「一度、宗谷の実物を見に行こう」と言いました。それは当然、必要なことです。いま宗谷は、お台場の船の科学館に係留されていますので、真夏の暑い日にお台場へと向かいました。

 初めて見る南極観測船「宗谷」は小さな船でした。この船ではるばる2万キロの彼方まで行った人々の勇気には頭が下がります。中を一通り見学して、台本のエピソードとも照らしあわせながら、最後に艦橋に上りましたら、そこに宗谷の解説をする方がいらっしゃいました。せっかくですから色々お聞きしていると、「何かの取材ですか?」、「いえ、じつはこうこうで、そのための見学に来たんです」と言いますと、「あ、それなら学芸課長のIさんにお会いになって下さい」と、学芸員の方を紹介いただきました。

 おそるおそる受付でお願いしますと、まもなくIさんがいらっしゃいました。そこで、南極観測隊の講談をやろうとしていることをお話しましたら、「じゃあウチでやりませんか?」、え!いいんですか、それは願ったり叶ったり・・・。この企画はとんとん拍子に進み、宗谷が出発した日にいちばん近い日曜日に、宗谷を間近に見る「羊蹄丸」のアドミラルホールで上演することになりました。なんという幸運! これも宗谷の上で解説員の方にお会いしなかったら無かったことです。この解説員の方〜井上さんと言う方ですが、ここに来るのは週に二日だけ。本当にご縁があったと言う事でしょうか・・・。

 初演の日には、この第1次観測の南極への航海で宗谷の舵を取った操舵長、三田安則さんがお見えになり、私の講談の後(あまりデキは良くなかった・・)、南極観測のお話を聞かせて下さいましたが、その迫力・説得力・・・。なまじの講談師ではとてもかなわないほどでしたが、三田さんは私がこの話を取り上げたことを気に入って下さったらしく、その後、昨年の会にも来て下さいました。今年は50周年、私のこの話を何かのイベントに使えないかと、色々考えて下さいます。実に、ありがたいことです。
 

 あと、ずっと気になっていましたのが、北村先生から「この講談のテープを送って欲しい」と頼まれていたこと。なかなか上手く演じることが出来ずに、お送りすることが出来ずにおりましたが、ようやく今年の1月に、羽野さんに録音してもらってお送りいたしました。思ったほど上手じゃないなー・・とか、がっかりされるのではと心配しておりましたら、しばらくしてお手紙をいただきました。そこには「この講談は歴史的に正しく口述されています。だから、これはきっと、後世、日本の南極事業が如何に始まったかを知る上で大変参考になると思います」と書かれてあり、当時の貴重な南極絵はがきが添えられてありました。バンザイ! 苦労の甲斐がありました。北村先生のお墨付きをいただき、これで心置き無く演じられます。

 このように、この話をモノにするのは大変なこともありましたが、また不思議と力を貸して下さる方があらわれ、また、結果としてはその苦労が良い方向に向くようになる。宗谷は不思議な幸運を持った船だったそうですが、その運が私にも味方してくれたのだったら嬉しいことです。宗谷はいま、かなり傷みが激しく、船の科学館は保存のための募金を呼びかけています。私も協力させていただきましたが、今年は南極観測50周年ですので、特にがんばってこの話を演じていきたいと思っております。 

 

 


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